げらげら

ノンフィクションとは限りません。

sank

言いたいことはたくさんあるのに、それが倫理に照らしてどうなのかとか、それらすべては互いに矛盾しないかとか、そういったことを点検するために、喉元の言葉を口に出す前に、アルキメデスよろしく社会性の水槽に沈めてみているから、言いたいけども言えないことが、体のうちでたくさんくすぶっている。

それが生きていくために必要なことだということは死ぬほど分かっているのだが、そういうの全部取っ払って、矛盾しまくった空っぽの不満をぶつけることができたなら、きっと気持ちいいんだろうな、と思う。そういうのを愚痴と言うんだろうか。平仄の合わない論理は好きじゃないが、たまにはいいかもしれない、退廃的で。ところで、人間というのは、そういうのを平時の自分のせいにしたくなくて、スケープゴートとして酒を呷り、「いま酔ってるから」になすりつけているのかもしれない。案外、そういうものかもしれない。

その一方で、取っ払うことは、自分には無理だろうなとも強く思う。そこまで自分を表現したことなんて今まで一度もないし、できる気がしないし、したとしても「なんであんな阿呆なこと言ってしまったんだ」ときっと酷く後悔しそうで、つまり代償を思うととてもできない。

だから、「言いたいこと(であろうこと)をバシッと言えている」人が羨ましい(何も知らない自分のような他人からそう見えているだけで、その人はその人なりにセーブしているのかもしれないが)。そういう人って、言動の由来そのものを、他の何でもなく、その人自身に引き戻しているから、言動すべてが「その人」という強くて重くて堅い下地、基盤、理論、アイデンティティで正当化されていて、もう手が出せない。だから安心して見ていられて気持ちが良い。

自分はそうでない生き方をずっとしてきたから、今さら変える勇気もないし、もし言いたいことをバシバシ言える人になれたとして、その生き方が自分に合っているのかも不安だ。というか、そうでない生き方をずっと続けてきたということが、もう傍証となって答を示しているような気がする。ところで、メタなこと言うと何か言った気になる自分がいるみたいでしんどいです。

救いがあるとすれば、自分のそういった生き方を、自分自身では嫌いではないということなのだ。自分のことを嫌忌しながら生きてきたという訳ではないから、他者に憧れても憧れ方がおぼつかなくて、どうしようもなさが遺っているというだけ。

だから、これまでの自分の生き方のなかにも、アイデンティティというかレゾンデートルというか、燃やした後で灰にならないというか、変わらない考え方があって、つまり自分というものは複雑ながらも、実は一元的で、ある根源が存在していて(別に一つでなくてもいい)、全部そこから生まれてきていたんだねって、あなたらしいよねって、そう思えるものを見つけられますように、そう思えることがいつかありますように、と願う。