げらげら

ノンフィクションとは限りません。

逃避行

夜更けに、スポーツウェアを着込んで玄関を飛び出す。この頃、日中は暑くなってきたものの、夜はまだ冷えるらしい。家の前に歩み出て、アキレス腱だけ伸ばす。小さい頃に、これだけはちゃんとやれと誰かに言われた気がする。

セーフティライトの赤いLEDを灯し、息を整え、アスファルトを後ろへ蹴って走り出す。凛としていた空気が相対的に動き出し、顔へ身体へと吹きつける。いつもと同じ景色が、いつもと違う速度で動き出す。ああ走っているのだ、という実感が心地良い。まだ少し寒いが、じきに気にならなくなるだろう。

弾む息の奥で、ポリエステル生地の擦れる薄い音と、スニーカーの地面を叩く乾いた音が聞こえて、それらが合わさって一つのリズムパターンを起こす。より長く走れるように、無意識のリズムに従いながら、走るペースを保ち続ける。まるでメトロノームのようだ。

仄かな橙をともした街灯が、等間隔に過ぎていく。汗をかいている。

今日は散々な日だった。自分の嫌なところをたくさん目の当たりにして、自分のくだらなさが嫌になって、横になってから体を起こせなくなり、何もする気にならないまま、何もできないまま、ただただ時間だけが過ぎていった。そんな自分を省みて、なおさら嫌になってしかたない。

はあ、と一つ、強く息を吐いてしまって、リズムが一瞬だけ崩れた。あわてて取り直せば、少しの息苦しさが残った。ひとたび呼吸を意識すると、外界の酸素と、体内の二酸化炭素を交換しながら単調に動いている自分が見え、まるで機械のようで、はたして人間は有機体としてよく出来ているなと感心する。

いまだ名前も知らない橋に差し掛かった。凪いだ黒い川面に、月光の黄色い筋が映っている。

つまりいま、逃げているのだ。今日の怠惰を無理に解決しようとしている。やるべきことを保留して、必ず終わりがやってくるような単調な作業に置き換えて、とりあえずの満足を得ようとしている。その満足のベールの後ろに、見たくないものをかき集めて、まとめて隠して、あくまでも今日を正当化しようとしている。

その瞬間、マフラーを轟かせ、すぐ横を車が勢いをもって過ぎたものだからびっくりした。思わず顔をしかめて後を見送る。テールライトの赤が、夜闇と車体の黒に溶け込んでいく。汗が滴った。

不純で、ずるくて、卑怯で、臆病で、惨めで、妥協で、譲歩で、逃避だ。分かっていながら、見ないふりをして、思わず飛び出したのだ。文字通り、逃げて、逃げて、しかし逃げた分だけ終わりが近づいてくる。茶番だ。全て分かっているのに。

それでもひとたび逃げ始めた自分には、夜の奥へ奥へ、ひたすら逃げ続けるしかないようだった。