げらげら

ノンフィクションとは限りません。

forall

もうこれ以上どんな言葉を重ねても、ただかさが増すばかりで言い訳にしかならないのだろうな、と思って、今までは言っていたであろう言葉を引っ込める癖ができた。

例えば、自分の姿勢や考え方が相手と合わなくて、相手にそれを指摘されたとき。今までだったら、それでも互いの妥協点をなんとか見出して、互いに「分かる」で終わるように努めていた。「○○なのはよくないよね」に対して、「でも俺はこれこれこうだから」と返して「あーそれはセーフ」を得ようとする感じ。

しかし、それは相手と少しでも分かり合おうとする殊勝な努力などではなく、相手の価値観のもとで自分を正当化して、相互理解の関係を無理にでも続けようとする惰性だったのだ。

やはり分からないものは依然として分からないし、分からないままでいい。「でも俺はこれこれこうだから」と言った自分の言葉も嘘ではないけれど、きっと肚裡にひっそりと掲げた信条に鑑みるといささか外れた例外的な側面で、そんなもので互いの理解を埋め続けるものだから、気づけば相手と話しているときの自分を客観視して「これは本当の自分じゃないのにな」とか思いはじめる。

相手に合わせた言い訳のような言葉でその場のやりとりを繋ぐくらいなら、自分の枢軸を保つことのほうが、互いにとって価値があると思う。

さりとて、「分かり合う」の慣性に従っていくのは、抗うよりも楽なのだ。自分を表現するのは楽しいことも多いが、その分、相手に分かってもらうための説明が必要だし、うまく表現にできないかも、と怖気付くことだってある。それに、仮にうまく伝えられたとしても、その先で分かってもらえないかもしれない。そこまでのリスクを背負ってまで、等身大の自分をぶつけたい、受け入れてもらいたいかというと、ほとんどの相手について答はNoなのだ。

だから、信条と気楽の折衷案らしく「少なくとも言い訳がましい正当化はやめよう、いまは分からないのだから」と決めた。