げらげら

ノンフィクションとは限りません。

ALL FOR ONE, but

最近、物事を客観視することに自信が持てない。そもそも、実際に思考するのはあくまで自分自身なのだから、完全に自分の外側から考えるなんてできっこないと思う。そこには無意識に自分自身の思い込みや気持ちの残滓が混入しているだろうし、むしろその方が自然なことだと思う。

だから、例えば何かの言葉を使うときに、「この言葉はこう伝わるだろう」と考えたところで、本当にそうなのか、確信を持てない。確かめる術がなくて、足場にぽっかり穴があいた感覚に陥る。もしひとりで二人、自分から自分に対話するのならそう伝わるのかもしれないが、それが知れたところで何の役に立つのだろう。

自分のなかの、主観と客観をうまく切り離せなくなっている。なぜなのだろう。

おおよそ答は出ている。余裕がなくなっているのだ。「他の人の気持ちに立って考える」という客観視の基本は、つまるところ、思いやる気持ちだと要約されよう。きっと自分のなかで、他人を思いやる心のようなものを保つスペースがなくなっていて、それは隅の暗いところに追いやられ、錆びついて動かせないのだ。

まとめると、いま自分は自身のことでてんやわんやで、内方へ意識が集中するあまり、余裕を失い視野は狭くなり、外方を度外視するという不埒をしでかしている。土壇場の本性。

江頭ミカの言葉を借りたい。こんな自分を、いったい誰が選ぶのだろう?